クラシックの森:ショパン大好き

都内在住のグラフィック&WEBデザイナーです。クラシック関連CDや漫画のレビュー等を交えながら、クラシック音楽の魅力を楽しく伝えていけたらいいなと思ってます。

アルトゥール・ルービンシュタイン PART2

こんにちは、グラフィッカー☆JUNです。(^-^)/

さて、アルトゥール・ルービンシュタイン Part1の続きになります。
前回の記事では、彼の生い立ちに始まり、度重なる青年時代の苦悩を乗り越えて、世界的な人気を博すまでを簡単に綴りました。

cosmic-classics.hatenablog.com


その後のルービンシュタインはどういう人生を歩んだのでしょう。
早速、彼の足跡を追ってみましょう。(^-^)

 

ルービンシュタインに付き纏う光と影

ルービンシュタインは45歳にして、23歳のネラ(アニエラ・ムウィナルスキ)という女性と結婚したのですが、それ以前の彼はそれこそ世界各国に恋人がいるというくらいのプレイボーイでした。
実に8~9か国語を見事に操ったというのですから、それも頷けますね!
ポーランド語、英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、フランス語…さて、あとはどこでしょうか。まさかアジア圏ってことはないですよね?(笑)ご存知の方がいらっしゃったら是非教えてください!

しかし、そんな彼も結婚となるとさすがに真面目に考えたようで、ワルシャワでベートーベンのピアノ協奏曲第4番を共演した指揮者の娘であるネラと結婚を考えるようになります。

いろいろと紆余曲折を経たようですが、最終的にはきちんと結婚し、その後の演奏旅行には可能な限りネラが同行したそうです。
この頃のルービンシュタインは、演奏家としても人間としてもずいぶんと落ち着いていたので、結婚していなくとも軽々しい火遊びはしなかったとは思いますが、奥さんの監視も多少は抑止力になっていた(?)のかもですね。(笑)

f:id:cosmic-classics:20170629120757j:plain

最終的には、4人の子宝に恵まれたそうです。45歳で結婚ですから、パパ頑張ったんですね。さすがルービンシュタイン、ボクも見習いたいです。(笑)

その後パリに居を構えるも、まもなくナチスが台頭し、ユダヤ人であることで危険を感じたルービンシュタインは、家族とともにアメリカへ演奏旅行へ出かけました。
そしてアメリカ滞在中、ついに第二次世界大戦が勃発するのです。
大戦後はアメリカ国籍を取得しました。

こう考えると、ルービンシュタインって人は、危機回避能力もズバ抜けているんですね。
偶然とかではなく、時代と先を読み、よき方向へ向かうべく行動を起こす人。
お陰で、ボクたちは彼が残してくれた音源を通じて、素晴らしい理想的なショパンに触れることができるのですから幸せなことですね。
しかし、祖国ポーランドに残された彼の身内は当然ユダヤ人ですから、ことごとくナチスに捕えられて命を落としています。(T^T)

1960年の第6回ショパン国際ピアノコンクールでは審査委員長を務め、あのマウリツィオ・ポリーニ優勝の際のコメントは今でも語り草となっています。

「彼は、審査員席にいる我々の誰よりも上手い!」


f:id:cosmic-classics:20170629121516j:plain

若い頃のポリーニはかなりのイケメン。いかにもイタリア人っていう感じのシャープな顔立ちです。

そして、晩年のルービンシュタインはというと、85歳という高齢でありながらショパンのピアノ協奏曲の2曲を一晩で弾ききったと言うのですから、もうスゴイという言葉しか出てきません。

 

ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番

ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番

 

 

ピアニストとしては89歳できちんと現役引退宣言をし、その6年後の1982年にスイスのジュネーブにて就寝中にこの世を去りました。
最期の人生の幕の下ろし方まで美しい人だったのですね。(ToT)

 

ルービンシュタインに曲を献呈した作曲家たち

ルービンシュタイン95年の人生を全うしたワケですが、考えてみたらほぼ一世紀を生き、80年もの長い間第一線のピアニストとして時代をリードしてきたのですね。
亡くなったのは1982年ですから、その年に生まれた人は現在35才。なんだか意外と最近な感じがします。←この感覚はオヤジですか?(笑)

しかし彼はその人生の中で、多くの歴史上の偉大な芸術家や作曲家、演奏家たちと交流してきました。
なにせ、あの有名な画家パブロ・ピカソは大親友で、ルービンシュタインは多くの作品を所有していたくらいですからね。(゚Д゚ノ)ノ

それらの名前を一部挙げてみると…

サン=サーンス
ポール・デュカス
ジョゼフ=モーリス・ラヴェル
カロル・シマノフスキ
イーゴリ・ストラヴィンスキー
エイトル・ヴィラ=ロボス
パブロ・カルザス
アレクサンドル・スクリャービン
マヌエル・デ・ファリャ
フランシス・プーランク
フェデリコ・モンポウ



このメンツはもの凄いですね!
しかも、この中の多くの作曲家が、ルービンシュタインのために曲を書き、彼に献呈しているのです。
死してなお記憶に新しい近代のピアニスト ルービンシュタインですが、こういった歴史的な足跡を数多く残しているのですね。(o´∀`pq)

 

オマケ:ルービンシュタインが残した逸話 

*********
エピソード その1
*********


有名な話なのでご存じの方も多数いらっしゃると思いますが、まずはロシアの天才ピアニスト、ヴラディミール・ホロヴィッツとの関係に纏わるエピソードです。

f:id:cosmic-classics:20170629123147j:plain


ルービンシュタインが、ロクに練習せずともほとんどの曲を軽々と弾きこなしてしまう才能に溺れかけていた頃、若きホロヴィッツの演奏を聴き大きな衝撃を受けたといいます。

「私は長い間、無知で傲慢で、自分の天与の音楽的才能を生かさなかったことを恥ずかしく思った。」

そして、それまでの怠惰な気持ちを入れ替え練習に励み、音楽と真摯に向き合うようになったのです。
ちなみに、ホロヴィッツ「世界のピアニストには三種類しかない。ユダヤ人とホモと下手糞だ。」と発言したそうですが、彼もユダヤ人です。但し、そこにホモという言葉も加わりますが。(笑)


*********
エピソード その2
*********


先ほど書いた1960年第6回ショパン国際ピアノコンクールですが、ポリーニの優勝に続く「第2位以降の順位に相当な不正がある。」ルービンシュタインは言っています。
そして、第11位に終わったピアニストに、自らの名前を取ったアルトゥール・ルービンシュタイン賞』を即席で作り、特別賞として与えたのです。

その時の彼の発言は断固としたものでした。

「審査委員長として、ここにアルトゥール・ルービンシュタイン賞とでも呼ぶべき特別賞を加えます。そして、第2位に相当する賞金とともにミシェル・ブロックに与えます。」

って、審査委員長ってこんな権限があるのでしょうか!?
…いや、ルービンシュタインだからこそできたのでしょうね。
ちなみにミシェル・ブロックについては詳しくは分かりませんが、ルービンシュタインにここまでさせたのですから興味がないといったらウソになります。
今度、時間を作って、動画なり音源を探してみたいと思います。


*********
エピソード その3
*********


晩年のルービンシュタインがコンサートを開いたときの、こんな面白エピソードもあります。
老いた彼に何か不調があったら「オレが代演を務めて一躍有名になってやる!」という淡い期待を胸に、ステージの袖で待機している若手ピアニストが数名いたということです。(^^;;
しかし、ルービンシュタインの代演でスターダムにのし上がった新星!…なんて話は聞いたことないので、彼らに一度もその機会を与えなかったということですね。(笑)


少し調べたら、もっと興味深い話がたくさん出てきそうですね。
そのときは、また別の機会にPART3として書かせて頂くことにしますね♪

それではまた!(^-^)/~~~